JOURNEY

旅の記録

旅の終わり、ここに咲く花。(ー東京心覚ー感想文)

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"ミュージカル『刀剣乱舞』ー東京心覚ー"を見た感想文です

※ためになる考察・解説などはありません 

 

 降り続く雨の晴れ間に、ミュージカル『刀剣乱舞』ー東京心覚ーは5月23日をもって3ヶ月にわたる公演に幕を下ろした。
政策による大阪公演の中止、地震による宮城公演の中止、直前まで上演を危ぶまれていた東京凱旋公演は多くの努力により幕を開け、東京という地に再びこの物語を咲かせた。
ありがたくも大千秋楽公演を日本青年館ホールで観劇できた私は鳴り止まない拍手の中去っていく彼らを、閉じていく世界を涙ながらに見送った。

 

東京心覚はどこまでも私たちに寄り添ってくれる物語だった。
上演を終えた今もなお、そしてこの先も。
Covid-19が人類にとって脅威ではなくなった遠い未来で、もはや思い出の中にしか存在しなくなってもきっとそれは変わらない。

私はこの物語が好きだ。

 

色々なことに傷つき、疲弊し、時にはうつむいたり立ち止まったり、何を信じればいいかわからなくなってしまったその最後の最後に、心が折れてしまう前にそっと手を握ってくれる物語だと、そんな風に思えた。

 

「問わず語り」という曲がある。ご存知の1部フィナーレ曲だ。
その中に
「誰かが言った 忘れてくれと」
「誰かが言った 隠してくれと」
という歌詞がある。私は初めて聞いた時からこの部分がいっとう好きだった。
自分のことを忘れてくれと、隠してくれと、もう誰ともつながりを持ちたくないほどに摩耗していた過去があった(今もそう変わらない)からだ。

心覚はそんな人間ですらも取りこぼすまいとすくい上げた。お前がそこに居ることを知っていると歌ってくれた。お前がそこで頑張っていることを知っていると言ってくれた。

ただ観ていただけのミュージカルの中に、私がいた。

 

大千秋楽の夜、彼らは舞台の上から私たちに拍手を贈ってくれた。
この時代に在って戦っていない者などいないのだ。それを彼らは知っていた。
やはりこの物語の中には私たちがいた。

それは「頑張る女性に元気を」というコンセプトで展開された刀ミュが、彼らの想いが「今」に咲かせた花だった。

 

大千秋楽を終えてまっすぐに家に帰ってからはしばらく茫然自失としていた。
空っぽになった胸の内に舞台の上から贈られた拍手の音だけが響いて、いかなる媒体の音も文字も何一つ頭に入ってこなかった。気を張っていないと涙が出るほど温かいものでいっぱいだった。

今はすべきことをする、できることをする、それしかない。

そうして生き抜いた先では誰もがこの苦しかった日々を忘れてしまうかもしれない。私が苦しみながら生きた日々は歴史に残らない。
それでもあの日拍手を贈ってくれた刀剣男士たちは覚えてくれている、そう思うと少しだけ心を強く保てるような気がした。

だから私はこの物語が好きだ。

今を生きる人のために紡がれた物語が、咲いてくれた花が、愛おしくて仕方がないのだ。

 

ひとつ断りを入れておくと、私は東京心覚に関しては賛否両論存在するという認識を持っている。今回はたまたまfor meのコンテンツを引き当てただけだし、のちに続く刀ミュがすべてかくあれとは思わない。この演目を絶賛する声にこそ疲弊するファンが存在することも知っている。

なぜなら演出手法と物語の性質上 話が「わかりにくい」上に「現実」へのアプローチが色濃いからだ。

従来の刀ミュの異次元的体験を重視する層には刺さりにくい。
「刀ミュにそういうのは求めていない」
「なぜ劇場に来てまで現実を突きつけられなければいけないのか」
「舞台を見るのにここまで頭を使いたくない」
もっともな意見だと思う。

気の利いたことは何も言えないが、彼女たちがいつかまた好みの演目と巡り合えることを祈っている。

私はこの時代に多くのファンを抱える刀ミュだからこそ、この物語を世に出してくれたことで救われた人がたくさんいると思っているから、やはり端的に「好き」という立場をとるしかないのだ。

 

 話を心覚の感想に戻そう。

今回の公演で「問わず語り」と並んで好きになったものがある。
前回の記事でも取り上げた永田聖一朗さん演じる村雲江だ。

 
ochiyachacha.hatenablog.com

 

2月9日にゲーム内に実装されたこの刀剣男士が1か月後には板の上を駆け回っている。
原作を咀嚼する暇もなくミュの情報量に飲まれた結果「メディアミックスから好きになるようなことはしない!原作至上で行かせてもらう!」と決めていたにも拘らずミュと原作の境界が曖昧なままずぶずぶと好きになってしまったのである。

不覚だった。悔しい。こんなはずじゃなかった。

ミュの村雲を好きになったと自覚してから原作のボイスを聞きこんだ、歴史のお勉強から逃げ続けてきたが史実もいくらか調べた。彼の抱える葛藤と人の身を得たからこそ生じた苦しみ、喜び、そして痛みについてできるだけ考えるようにした。
ヒトとは、モノとは、カミサマとは……。

一方で手を出さないと決めていた演者の個人配信を見てみた。
実際に演者の人となりを知るとミュの村雲のどの部分までが演者の要素でできているか少しわかってきて「悔しい」と「好き」が綯交ぜになっていた感情に少し風が吹き込んだ。新しい知見を得た。

 

さてミュの村雲についてだが、初日の配信映像、そして私が現地で観劇できた3月の東京公演では自暴自棄ヤケクソそのものだった。どこか諦めた目をして笑っていた。
それでも歴史を守るために励起されたから刀を振るって戦っている、不本意だからお腹も痛くなる。私の目にはそう映っていた。

そんな彼が桑名と関わる中で万物が循環の内に在ることを知り、見える世界がひらけてゆくシーンが大好きだった。先に貼ったドマステ感想記事でも言及しているが、あのシーンの芝居が無ければ村雲江というキャラクターをここまで好きになることはなかったと言っても過言ではないくらい永田さんは「いい仕事」をされた。

何度も何度も東京公演のアーカイブを見てすっかり村雲を推しと呼ぶようになってから臨んだ東京凱旋は驚きの連続だった。
初日映像をおいしいおいしいとお腹いっぱいかきこんでいたのに、さらに洗練された歌とダンスと芝居を見せつけられた。

それは様々な悲しみに見舞われた公演期間を、カンパニーの皆様がいかに真剣にこの作品と向き合ってきたかを物語っていた。

村雲はあの自暴自棄ヤケクソな態度がぐっと薄れ、遠くに何かを見ているように感じた。

視線の先に在るものは3月から続く東京心覚という長い長い旅の中で彼が、そして永田さんが見つけてきたもののように思えた。

この作品に触れ、この旅を終えて、彼は何を見つけたのか。

どんな花が咲いたのか。どんな歌をうたったのか。

今もそんなことを考えている。

エンターテイメントは“山吹”だ。

実が成らないから食べられやしない。腹の足しにもならない。
それでも見た者の心にもたらすものがある。それはこの時代においても間違いなく、なくてはならないのだと思う。

彼らはすべきことをすると言った。この先も全身全霊で私たちに届けようとするだろう。
終わりの見えない混迷に美しい花を、歌を、物語を。

 

素晴らしい日々をありがとうございました。

私はこの時代で東京心覚に出会えて本当に幸せです。

 

ミュージカル『刀剣乱舞』関係者様、同好のファンの皆様、これを読んでくれたあなた、同じ時代を生きるすべての人が一日でも早く安心して心穏やかに過ごせる日が来ることを願って。

 

 

アイキャッチ画像にお借りした素敵な山吹のお写真はこちらのサイトより

フリー自然写真、フリー素材写真のPhoto-pot

 

 

おわり